地質学雑誌2003年5月号(109巻5号),299-302頁掲載「ノート」

 

地質家別所文吉の生涯:根尾谷から

ハルマヘラ島を経て大阪山脈へ

 

Biography of a géologue Bunkichi Bessho: from the Neo Valley

to the Osaka Range via the Halmahera Island
 

別所文吉(1972年撮影,

杉本幹博氏提供)      

この文章の著作権は日本地質学会(〒101-0032 東京都千代田区岩本町2-8-15井桁ビル6F,

電話:03-5823-1150, ファクス:-1156, メール:main@geosociety.jp)にあります.

 

石渡 明 Akira Ishiwatari*         

*金沢大学理学部地球学科 Department of Earth Sciences, Faculty of Science, Kanazawa University, Kanazawa 920-1192, Japan

 

 [新聞記事] [伝言板] [石渡ページ] [石渡研究室ページ] [地球学科ページ] [岩石クイズ] [薄片鉱物鑑定表]

 


 

 

はじめに

 別所文吉 (1907-1983) は,大学教授だったことはあるが「地質学者」というわけではなく,地質関係の役所や企業の重役だったことはあるが単なる「地質屋」でもない.「真の地質(ぢしつ)」を求めて波乱万丈の青・壮年期を過ごし,老いても山を歩き続けた「地質家」である.

私は約10年前,オフィオライト研究の過程でハルマヘラ島に関するHall et al. (1988)の論文中に別所(1944b)の引用を見出し,この人を知った.別所(1944b; 1969)にはハルマヘラ島中央部の地質図が示され,かんらん岩体が何枚ものスラスト・シートとして東から西へ衝上する様子が見事に描かれている.Hall et al. (1988)の地質図は同島全域を描くが,かんらん岩体内部の衝上断層までは示していない.最近,私たちが調査中の舟伏山(市山・石渡 2002)を含む岐阜県根尾谷で彼が卒論研究を行い,立派な地質図を描いたこと,その後の彼の文章が雑誌などに多数残っていることを知った.それらは仏典や漢籍の知識を交えた歯切れの良い文体で,彼の豊富な野外調査の経験とそれに基づく独創的な思索を生き生きと伝えている.今の若い地質家たちに彼を紹介する必要を感じ,彼と親しかった人々に取材した上で筆を執った.文中で敬称を略す失礼をお許し願いたい.

 

根尾谷断層に関する卒論「山岳の静動」

 別所文吉は明治40(1907)年,別所吉太郎の四男として金沢に生まれ,金沢第二中学卒業後北海道帝大予科に入学した.後輩には湊正雄らがいた.昭和2(1927)年北大予科を修了し京都帝大理学部地鉱教室に入学したが,「化石も鉱物も実験も嫌いだった上に,講義ときたら六年間の教室生活のうち,一週間もきかなかったほど大嫌いで,大学での地質のことを何も知らなかった」(別所 1968, p. 267).

彼は中村新太郎を指導教官として,根尾谷断層周辺地域の地質構造を課題とし,延長72km,幅12kmの広大な地域を1931年の3月から12月まで調査して,翌年の2月に「山岳の静動」と題する卒業論文を完成した(別所 1968; 1974c(2)).「題名をとくに,山岳の静動としたのは,地質学の書物にある断層の『生動』(地震に伴う断層運動)ともちがい,近代人がよくいう滑行(スキー)の『制動』ともちがう.それは松薪桑海の変の前におかるべき好文字であって,地学以前,地学以後にわたる広い意味をもっているが,今回発表の焦点の一つが,生後四十歳の転変をへた地表断層の容姿を写しださんとするのに,ふさわしいからである」(別所 1968, p. 121).そして,「著作を公にすることは,恥を後の世に残すようなものである.ことに今回は有余る材料を持ちながら,充分に整理もつけず発表しなければならないだけ,なかなかに苦痛である」(同, p. 123)といいながら,「この作文の半まで書いたとき,一友人が『科学論文の書き方』という書物を持ってきてくれた.読んでみて,わたくしの筆法が,ぜんぜん『科学論文の書き方』の逆をいっているのに気がついたが,時すでに晩く,今までの筆勢は,どうすることもできなくて,巻尾に至った」(同,p. 263)という代物であるが,その後「この論文はよく読まれ,地質の学生のみならず,理学部や農学部や旅行部の学生までが借りにきたものだそうな」(同, p. 267).この卒論の地質図には,舟伏山など石灰岩・緑色岩体下底の衝上断層やジュラ紀付加体(別所の「古生層」)の内部構造が見事に描かれている.

 この論文は,「根尾谷断層をめぐる地質構造が,いかにして生成堆積し,変形して,濃尾地震に活動するに至ったかを,一貫して知らんとする.といっても,この地域の四隣の研究に気兼して,岩層の配列や時代を迎合する地史学的の仕事をするという意味ではない.そういう高等掃除婦には,なりたくない」(同,p.353).この論文で彼が明らかにしたことは,1891年の「濃尾地震で活動した根尾谷断層は,複背斜の軸面に一致する軸面断層で,互いに雁行する3つの部分からなるが,その延長は背斜の起上した領域の外にでることがない.その背斜の規模は古生層の中で確認されただけでも延長50km,幅員10kmに及ぶ日本を横断する雄大なもの」(同,p. 363)であり,要するに活断層の存在は基盤の地質構造に規制されているということである.この考えは以後の別所の著作を貫く主題となる.

 

中国大陸とハルマヘラ島

別所は卒業後,京大副手を経て昭和8(1933)年に南満州鉄道会社地質調査所に入所し,「関東州」図幅を作成した.1934年には大興安嶺脊梁部で「イリクテ」,「メント河」,「ブヘトウ」の3図幅,1935年には熱河省で「三溝」,「六溝」の2図幅を作成した.1936年には北京に留学し,北京西山の地質図を作成した(別所 1950; 1975a (7)).1938年には満鉄上海事務所に所属し,安徽省淮南炭田を調査した(別所 1941b).1940年に内地の地質調査所に移り,仏印(インドシナ)全域の文献による資源調査を行った(別所1941a).

昭和17(1942)年,海軍省第二艦隊司令部付として120日間にわたりハルマヘラ島の調査を行った.ハルマヘラ(ジロロ)はインドネシア東部,セレベス(スラウェシ)島の東にある密林に覆われたK字型の島で,面積は四国と同じである.別所(1944b)はこの島の基本構造について,「かくの如き褶曲をなせる小構造盆地を載せたる(超)塩基性岩類よりなる古き地塊は東より西に向かいて衝上して鱗片状構造を造り,其の前面は主としてパラパラ層,ウエダ層よりなれる新しき地塊の上に衝き上げたり.この衝上地塊前面の型は西に向かいて張れる十一個の弧をなせり」と述べており,その様子は前述の通り地質図によく表現されている.この論文は大規模なかんらん岩体の衝上現象を世界で最も早く明らかにし,調査隊が発見した大規模なアスベスト鉱床がその後採掘されるなどの成果があった.

 この調査旅行の記録は別所の代表作と言え,計19回に分けて印刷された.これらは地質学的な観察の他,調査中の様々な出来事,調査ルートの地形や動植物,現地人やアラビア人を含む調査隊各人の心理の変化や葛藤,土地の人たちの風俗習慣や精神性などが時を追って詳しく記述された「覊旅(きりょ)文学」である.戦争中に出版された前半(別所 1944a)は縦書きで人数や距離などが伏せ字,戦後出版の後半(別所1952-1955)は横書きだが,別所(1969)では伏せ字が補われ全編縦書きで統一してある.

別所(1944a)の其一では,「地質学の本質の綜合の醍醐味は丁寧な野外作業を行い,数多の精密な地質図を作成して後,始めて会得し得る境地であって,地質現象の真髄はかかる方法によってのみ極め得るものと思われる」という彼の持論が述べられ,探検開始までの経緯が説明される.其三では「ベタカコ東面の崖で石灰岩の上に超塩基性岩が低角度の衝上をしていることを発見.ハルマヘラに入る前から予想していたところを初めて確認した」.其五のトグテル族の一人が語った自分の生涯についての話の記録は興味深い.彼は自分の死の様子を確定したものとして語るのである.其四には,ある村の老村長の舞踊に高い精神性を見て感激したことを記している.別所(1953)の(7)には勇敢なオランダの敗残兵ホップマンに関する次のような話がある.「5人の敗残兵がマバのバッサン・グラファンを占領したとき,郡長のスパイが床下で聴き耳をたてていると,上は泣き声と怒声が入交じっての喧嘩です.何時まで待てば良いのか.1年後に蘭印ヒリッピンを挽回すると誇号したマッカーサー反撃は,未だ珊瑚海・ソロモン海で愚図ついている.われわれには絶望があるばかりだ.それに日本軍の討伐隊がきているという.それでなくてさえ,もう何としても樹海の逃避には耐えられない.明日は降伏しよう.降伏は虐殺を意味する.自殺だ.自殺あるばかりだ.と衆議一決となったとき,彼一人毅然として反対して,私は降伏と自殺よりは戦争を選ぶ.私一人でも日本軍と戦い,敵の食糧物資を奪って豪州へ脱出する自信がある,といって敗残兵の志気を鼓舞したという.(中略)彼の行動は,男子と冒険家に共通したものであるが.武士は相見互いという.『今日は人の身,明日はわが身に降りかかる』富樫介の台詞にあるもののあわれに私は泣きました」.ただし,この話は戦時出版の別所(1944a)其五にも出てくるが,そこでは「この情報によって敗残兵には全く戦意の無いことがわかったのである」という,敵兵への同情のない筋書きになっている.別所(1954)の(8)にはワニの話がある.「昨日セセウ山に登って(中略)山々の褶を写生しながら,その奥に隠された地質構造を読み取ることができた,と思う危険な増上慢(ぞうじょうまん)に陥ったのである.この増上慢を打ち砕いたのは,じつに,今日の鰐(わに)であった.淡水の鰐は,インドネシヤの迷信であって,実在するものではない.ということこそ,私の迷信であったのだ.100日間淡水で泳いだという経験が,今飛び込んだ鰐に比べ,何と小さな,憐れな実証であったことよ」.この文章は,別所文吉が単なる剛毅な探検家,自説に固執する頑固者ではなく,内省の人であることを物語っている.

 

地質調査所大阪支所,理想鉱山,秋田油田

 別所文吉は昭和21(1946)年に通産省地質調査所大阪支所長になった.終戦直後の当時,日本は国内でエネルギー資源を調達する必要に迫られていた.彼は「大阪盆地の真中に南北に延びる上町(うえまち)台地のふくらみを平野下の背斜構造に関係ありとにらんで,盆地下に天然ガスがトラップされているのではないかと推察し,持ち前の大胆かつ緻密な計画を立て,大阪府知事を説得して,天然ガス調査予算を獲得した.それもボーリング予算だけでなく,盆地の内部構造を知るためには,盆地周辺の丘陵に露出する『洪積層』の地表調査が必要として,そのための予算もつけ,京都大学の槙山次郎教授に調査を委託した.これが大阪層群研究の出発点である」(藤田 2002).この調査には藤田和夫ら数人の若手が参加したが,「今から考えてみると,この分担はそれぞれの研究者の,今日の研究の原点であったといえる」(藤田2002).この調査の成果は1950年に「大阪天然瓦斯調査報告書」としてまとめられ,この中で別所は,「従来生駒山脈はホルスト(地塁)として喧伝され,教科書にも採用されていたが,今から二十年ほど前に槙山博士はこれに修正を加へ傾動地塊であると論じ,多くの地質学者の認めるところとなった.そこで辻村博士等は山脈の大阪側斜面を生駒断層崖と名付け,この概念は代って定説の如く通用していた.ところが今回の調査では生駒山脈が基盤褶曲による生成であり,所謂断層崖は断層崖でないことが判明した.このような事項は,凡そ天然資源,特に新生代の軟弱な被覆岩層に含まれた燃料資源とは一見無関係で,単に学術上の興味以外何の意義ももたないと思はれるかも知れないが,実はさにあらず,極めて重要な関連があるのである」と述べている(藤田 2002).別所(1971)には,「通産省地質調査所大阪支所の歩みと大阪地下資源協会の出発」および「大阪地質調査所始末記」が所収されている.1950年,彼は地質調査所仙台支所長として転出した.

1946年執筆の「理想鉱山」という未公表論文が別所(1971)に収められている.戦後の鉱山業の復興方針を考察したもので,「日本の鉱業が今日の衰運におちいりしは,われらが生産と直結せず,高見の見物的指導をなしたるがためである.この際われら自身が鉱山の経営者となり,科学技術の粋をあつめた鉱山のユートピアをつくり,これを中心として周囲の鉱山の技術水準をあげる」と謳い,「例えば農家に対する農事試験所・訓練所のようなものであるが,違うところは,自立自活することを原則とする点である.かかる鉱山を仮に理想鉱山ということにする」と述べ,終戦まで海外の地質調査や鉱山開発・運営に従事していた人員を国内の鉱山開発に振り向ける具体的な計画が記述されている.有言実行を旨とする彼は,昭和28(1953)年に数人の同志とともに官界を辞し,大阪鉱業会社を設立して専務取締役になり,まず山口県金ヶ峠鉱山,次に徳島県相川鉱山を経営した.しかし,「さきはわたくしの人を信じ易い癖と法律の知識がなかったために,あとには銅の世界的値下がりのために失敗し」(別所 1971),彼は多額の負債を抱えてしまった.

 別所は理想鉱山の失敗の後,昭和30(1955)年に帝国石油に入り,秋田の油田地帯の調査を行った.そして見事な地質図と多数の断面図つきの八橋(やばせ)油田に関する論文(別所 1957)を発表し,その末尾には「この論文の示唆する処により,昭和32年7月帝国石油株式会社は,新秋田油田を発見するに到った」と記している.彼はこの業績により1958年に京都大学から博士号を得た.また同年,石油資源に転出し夕張炭田を調査した(別所 1961; 1962).

 

金沢大学教育学部と退官後の「大阪山脈」

 別所は昭和35(1960)年,郷里に戻り,金沢大学教育学部の教官となった.彼自身の卒論研究のフィールドを再調査して地質図を完成させるつもりだったが,1963年に脳出血のため入院,1968年には再び大学で倒れて半身不随となり,それは不可能となった.彼は教育熱心で病院から大学へ通い,講義時間を厳格に守った.大きな体躯で酒好きだった.病状がよいと学生や助手を連れて土曜〜日曜に金沢市内の禅寺に泊り込み座禅をした(藤則雄談).彼の下で講師を勤めた地理の金崎(1988)は,彼の学内の様子を批判的に詳述している.

別所はこの時期に石川県の地質を研究し(別所ほか 1967; 別所・藤 1967),それまでの著作を集大成して出版した(別所 1968; 1969; 1971).「金沢周辺の地質」(別所ほか 1967)は従来の地層名を無視して岩相層序区分を行い,地層の一般走向とは直交する北西―南東方向の背斜軸の存在を強調して前述の大阪平野のような基盤褶曲構造を示唆し,彼の流儀で引用文献を一切省いた.また,当時流行した水石趣味に関して「新しい石の楽しみ方」(自分で探すこと,石を傷つけぬこと,石を売買せぬこと)を提案したり(別所 1963; 1964a),「日本地質家列伝」と称して江原真伍(別所 1964b),小川琢治(別所 1965; 1966),そして自分の指導教官だった中村新太郎(別所 1967)の評伝を書いたりした.江原逝去直後の評伝の冒頭では,「先生には沢山の弟子がおられるのに,わたしが出しゃばって小伝を書くものは,一に先生への思慕の念が深いからである」と述べ,末尾では「江原の太平洋論も,今は沈潜しているが,いずれは復活し,その真価が讃えられ,日本構造論の示針となる時がくることを,信じて疑わぬものである」と結んでいる.

彼は大学の地質教育について次のように述べる.「近年の大学における地質はややともすれば地質の本質から遠ざかろうとする傾向がある」.「かんたんに言って,地質図を中心としないものは地質の論文ではない」.「地質学は解体して他の科学に吸収される運命にある,という考えをいだく人々が多いが,われらはこういう人々をもう一度野外に引出し,自然科学として極めて特徴的で,やり甲斐のある,真の地質に呼び戻そうとする」.「地質を通俗化して,徒に地質の尊厳を傷つけている者や,ただ教えることで俗人の上に立つことに愉悦を感ずるだけの地質教育者などは,真の地質の普及には百害あって一利なきものだ」.「われらは『上求(じょうきゅう)菩提(ぼだい),下化(げけ)衆生(しゅじょう)』の行者(ぎょうじゃ)でありたい」.「地質はそれを通じて人類の福祉に貢献するものである.それが地質の本質に到達しているか否かをきめるバロメーターである」(別所 1968).「わたくしは真実の地質は,明るい研究室の中から生まれるものではなくて,闇い奈落の底から生死の瀬戸際に生きかえってくるものであることを信じている.これが本実の地質の繁栄であり,甦生である」(別所 1971).そして若い地質家への言葉.「生活の苦しさを気にするな.出世した奴を羨むな.敵と争うな.短い人生だ.お前のすることは他にある.歩け.山を歩け.悲しみも苦しみも,山がだいてくれる」(同前).

別所文吉は金沢大学を1972年に定年退官後,大阪に住み,「脳血栓の後遺症,半身不随,言語障害のある肉体」でありながら,更に執筆活動を続け,京都・奈良・大阪近辺の900-1000m級の峠を踏む日帰りの調査を続けた.その時期の作品が「大阪山脈」(別所 1973; 1974c; 1975a; 1976a 散官大夫(1973)もほぼ同内容)である.「この題名を見られた方は,大阪には山がない筈だが,と思われたに違いない」.「大阪市街地の東部に,大阪城付近より漸起し,比高15m内外を保ち,漸次住吉付近に沈む幅2km,長さ10km内外に亘る丘陵がある.本地域は上町(うえまち)台地,或は俗に大阪山脈と呼ばれる」.「大阪山脈とは,深くて堅い中生層,古生層,火成岩の中に根をはっていて,その頭部が浸食につれて削り取られた地下深層の中にある山脈のことである」.この文章は,江原(1963)の「高野山押出シ」や藤田・笠間(1971)の六甲山地質図などを紹介・批評しながら近畿地方の基盤地質構造を論じ,最後に「古生層の中にもとからあった褶曲は依然として同じ場所に存在し,生長して活動を続けているのである」と結論している.また,別所(1974a)は1909年の江濃地震や1662年の寛文地震を起した断層も基盤褶曲の軸面断層の可能性が高いと述べている.

「大阪山脈」に引き続き,「最後の仕事として,書き残したい」という「日本の尾根から」が印刷された(別所 1976b)(別所1974b; 1975bもほぼ同内容).「いたずらに先人の跡を追うことを,いさぎよしとせず,また流行のプレート説やブロック説に,触れることを避けて」,日本の基本的な地質構造を論じようとしたものである.飛騨山地のいくつかの地質図を紹介・批評するが,結局自分の環根尾断層地質構造図にもどってしまう.地質家は卒論のフィールドの呪縛から一生逃れられないものと見える.

この文章の最後の数ページには,この地質家のフィナーレを飾るにふさわしい話が書かれている.それは,体の不自由な70歳近い別所が,高知県本山まで,96歳の沢田俊治という人に会いに行く話である.沢田は「朝鮮での教員生活をやめてから,全国と云わず,樺太・満州・蒙古・台湾までのして,放浪生活をしていた」が,その後は江原真伍と一緒に「寒山(かんざん)・拾得(じっとく)が相たずさえて遊行(ゆぎょう)するように」35年間四国を歩いた放浪の野外地質家である.「翁を見て,私の知っている(禅の)老師がそこに兀座して居られると思った」.そして山田鏡陽が土佐山田町の名誉町民になった79歳の沢田を詠んだ詩を引用する.「少壮にして家を離れ志(こころざし)は絶群たり 人間の寵辱(ちょうじょく)は浮雲に比すべし 鎚(ハンマー)単(ひと)つ嚢(リュック)孤(ひと)つをもって蹤跡(しょうせき)を周(めぐ)り 玄々たる大地の文(あや)を彰(あきら)かにし得たり」(寵辱は栄辱.蹤跡は事跡(露頭).玄々は玄妙・幽玄).「わたくしは地質に憑(つ)かれた男たちの,栄誉に縁のなかった,どこにおちるのかわからない行末を書いたものである」.しかし,「ここまでになると,もはや野外地質の行者には,プロもなければアマもない.清浄(しょうじょう)の山河をみる心があるだけである」.そして最後の一文は,「野外を歩けなくなった者は,もはや地質家ではなく地質への夢想を残してゆくだけである」.別所文吉は1983年に亡くなった.享年76歳であった.

 

おわりに

 以上を振り返ると,新緑の奥美濃を意気揚揚と闊歩する学生別所文吉が,黄砂舞う華北の山々やハルマヘラの密林を探検する青年別所文吉が,桜咲く大阪平野や秋田油田を調査する壮年の別所文吉が,そして杖をつき紅葉の生駒山系を遊行する老年の別所文吉が走馬灯のように思い浮かぶ.彼はこのような地質一筋の人生を歩き通し,多数の優れた地質図を著しただけでなく,各時期の仕事の成果や感懐を彼一流の名文で公表してきた.彼の所説には現在一般の地質学的見解と異なる部分もあるが,野外調査と社会的実践を重視する彼の姿勢には学ぶべきものがあり,彼の文章は若い野外地質家への励ましに満ちている.

 

謝辞

調査にご協力頂いた藤田和夫,藤 則雄,杉本幹博,守屋以智雄,坂野昇平の各氏及び岐阜大学図書館(今西錦司文庫),金沢大学図書館に感謝する.原稿を読んでご批判いただいた椚座圭太郎氏,辻森 樹氏,及び査読者の鈴木尉元氏に感謝する.

 

引用文献

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別所文吉, 1941b, 淮南炭田基盤層の配列.地学雑, 53, 402-413.

別所文吉, 1944a, ハルマヘラ島探検談(其一)〜(其五).地学雑,56, 51-58; 136-150; 213-230; 302-315; 330-346.

別所文吉, 1944b, ハルマヘラ島の地質構造(予報). 地学雑, 56, 195-203.

別所文吉, 1950, 北京西山の地質.地質, 1, 1 (付1:60,000三家店付近地質図,巻頭言).

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別所文吉, 1953, ハルマヘラ探検記(4)-(7).地学雑,62, 34-42; 76-83; 134-141; 172-184.

別所文吉, 1954, ハルマヘラ探検記(8)-(10). 地学雑,63, 33-44; 90-99; 220-229.

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藤田和夫・笠間太郎, 1971, 六甲山地とその周辺の地質.5万分の1神戸市及び隣接地域地質図及び説明書.神戸市企画局. 58 p.

市山祐司・石渡 明, 2002, 美濃帯舟伏山地域のピクライトについて.日本地質学会第109年学術大会(新潟)演旨, p. 210.

金崎 肇, 1988, 二足のわらじ(前編).ヨシダ印刷.272 p.

散官大夫, 1973, 京都 大阪 奈良 神戸 堺 大津の基盤構造についての夢想@-G.地質ニュース,222, 36-42; 223, 50-55; 224, 12-21; 225, 28-31; 226, 39-45; 227, 14-24; 228, 28-35; 230, 32-40.

 

【一部のブラウザでルビの部分が読みにくいことがわかったので,2004年8月3日にルビの書式を削除しました.】

 


 

北陸中日新聞 2003年4月20日朝刊 に掲載された別所文吉に関する記事

 


 

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2003年6月26日作成 2004年08月03日更新