【本の紹介】 日本地質学会ニュース 第7巻4号15頁(2004年4月号)掲載

 

オラビ瀬の洞門  西山忠男著  

 

櫂歌(とうか)書房 200311日発行 

B6判ハードカバー419頁 \1,800+税

 

伝言板 石渡ページ 石渡研究室ページ 地球学科ページ

 


 

 小説は著者の文才のなせる技であるが,また著者の情念の表現でもある.学生時代に同じゼミで議論し合い,その後も学会などで度々会って世間的な付き合いをしている同業者の情念の世界に踏み込むことは,非常に気が重く,ためらいを感じるものである.私がこの小説を著者から受け取った時は,そういう気持ちでページをめくりながら,登場人物の断片的な記述を読んで,ああ,これはあの大学のあの先生のことだ,これは我々の指導教官だった先生のことだな,これは彼の後輩の誰君と誰君のことだ,などとつまみ読みするだけで,この小説の中に立ち入って著者の情念の世界を共有しようという気にはならなかった.この本を受け取った知人たちの反応を見ても,多分皆同じような気持ちだったのではないかと思われる.この本のカバーの表には,曇り空の穏やかな海にぽっかりと口をあけるオラビ瀬の洞門と,そこへ読者を誘い込むように明るい黄緑色の可憐な花をつけたアオモジの一枝が描かれている.そしてその裏には,地球からは見えないはずの面をこちらに向けた満月の下,漆黒の闇の中でその洞門だけが不思議な光を背に不気味なシルエットを現している.本棚の隅に置かれたこの紫色の洞門の本がだんだん気になってきて,この本には本当は何が書かれているのだろうかという疑念が強まり,ついに1年後,意を決して一字一字著者の情念の世界に入っていった.私にはこの小説の文学的な批評をする能力はなく,浅薄な一読者の感想文の域を出ないが、現役の地質学者が綴った人間の魂の世界を是非多くの人に体験してもらいたいと思い,この紹介文を記す.

 

 この小説が出版される3ヶ月前に石黒耀の「死都日本」(講談社)という長編小説が出た.「死都日本」は南九州のカルデラ火山の破局的噴火によって日本が壊滅状態に陥る様子を描いたもので,小説の中では何十万人もの人が命を落とし,日本が死都と化してしまうにもかかわらず,登場人物は黒木助教授も岩切記者も菅原首相も皆アッケラカンとして底抜けに明るい.「死都日本」が多くの人に読まれ,火山学者から高い評価を受け,政府の役人まで出席する死都日本シンポジウムが開かれるほどポピュラーになったのは,破局噴火が実際に何回も過去の日本で発生していて今後も発生の可能性があるという危機感だけではなく,「死都日本」を非常に読みやすい小説にしている登場人物の明るさも一因であろう.それに対して本書は「人は誰しもその内部に地獄に連なっているかもしれない底知れぬ暗闇を養っている」(p.234)という人間観で貫かれている.主な登場人物はみな負の歴史の遺産を背負っており,自分自身や自分の血縁に連なる者を守るためにウソをつき,私利をはかるために様々な策略をめぐらし,一つの事件を自分たちに有利な,自分たちを正当化する伝説として継承していく.そしてそうした世界に対しては余所者であったはずの主人公までが,最後はその連鎖の中に自ら飛び込み,深い洞門の中へ入り込んでいく...

 

 この小説の主人公は,恐らく著者が若い頃幸福な学究生活を送ったであろう街に因んで金沢祥一と名づけられている.彼はある大学の構造地質関係の白髪で攻撃的な性格の教授(私には顔が思い浮かぶ)の研究室の卒論生で,長崎県の変成岩地域の地質構造を研究課題として与えられる.調査をはじめて数日後に,彼はオラビ瀬の洞門である女性の死の現場に遭遇してしまう.それがもとで彼はその地域に足を踏み入れる気がしなくなり,卒論の調査は非常に不完全なものになってしまって,大学院への進学の道は閉ざされる.彼は教授の計らいで地質コンサルタント会社に就職するが,下積みの仕事の繰り返しと周囲の俗物的な人間たちの中で次第に自分の現状への不満を募らせる.そんな時,卒論調査の時に偶然手に入れて保存してあった,洞門で死んだ女性のノートを,卒業の10年後に初めて読む.その女性は主人公より5歳ほど年上で,この地域で江戸時代の初めに行なわれた切支丹弾圧を卒論のテーマとして現地調査していた文学部の学生だったのだ.そして調査を進めるうちに彼女自身が350年前の切支丹弾圧によってオラビ瀬の洞門で磔(はりつけ)になって殺された女の子孫であることを知り,自分をその女の生まれ代わりと思うようになった.そしてその女が葬られている聖なる山の頂きで洞門近くの村の青年と運命的な出会いをしたところまでがノートに綴られていた.その後彼女とその青年は結婚したが,その青年は漁に出て亡くなってしまい,彼女も白衣を纏(まと)って自らオラビ瀬の洞門に船を進め,命を落とす.それが,主人公が卒論調査のはじめに目撃した彼女の死の現場だった.主人公は,政府の地質関係の役人(この人も顔が思い浮かぶ)を接待する会社の宴会で無理に裸踊りをさせられた屈辱的な体験を機に会社を辞め,それまで一度も再訪したことがなかった卒論のフィールドに戻る.そして彼女の実家の墓から彼女の骨壷を盗み出し,オラビ瀬がよく見える聖なる山に葬ったあと,自らもオラビ瀬の洞門に向かう...

 

 この本の帯に印刷されているキャッチフレーズは「洞門にすべてがある」「隠れ切支丹の村になおも息づく伝説」「その伝説の魔力に魅入られた若者の孤独な愛の物語」である.この本には走向傾斜を測る場面や,泥質片岩,紅簾片岩,蛇紋岩,大理石,玄武岩岩脈,安山岩溶岩円頂丘,石英脈,金鉱山,海食洞,鍾乳洞,ダム軸を通る断層,地滑りなど,地質学的な記述が多々あり(不思議なことにヒスイの話は全く出てこない.白衣の女性がヒスイの化身なのだろうか),地質教室のゼミやコンサル会社の仕事の様子も描かれてはいるが,「日本沈没」や「死都日本」のような,学界の外の人間が書いた地球科学的啓蒙小説とは全く違う.現役の地質学の大学教授が,自分自身の体験や見聞に基づく地質関係の大学や企業の人間模様を前景にして,数百年前の暗い歴史を経た土地で,その重い歴史を背負いながら血縁に縛られて生き,そして死んでいった人々の魂のおらび(叫び)を,そして無垢な卒論生が汚い現実の人間たちの世界を知り,そこから脱して清浄な愛の世界へ飛び込むまでの道程を,緻密なストーリー構成の中で見事に描ききった,ストイックな愛の物語である.決してとっつきやすい本ではないが,西海の半島に露出する結晶片岩の複雑な褶(ひだ)を一字一字辿りながら,人間の魂の奥底を歩く巡検に出かけてみては如何だろうか.なお,この本はインターネット上の紀伊国屋書店やYahooのイーエスブックでも購入できる.

(石渡 明)
 


 

2004年06月04日作成 2004年06月04日更新

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