小笠原諸島の地質ガイド
Field Guide To Geology Of The Bonin Islands
海野 進
Susumu UMINO


 小笠原を“東洋のガラパゴス”に喩えることがあります。孤島で独自の進化をした動植物にあふれた島々は確かに進化論ゆかりの地“ガラパゴス”になぞらえたくなります。しかし,地質学的にはガラパゴスは比較的よく研究されたホットスポット火山の一つの典型ですが,それ自体希有な存在というわけではありません。ところが,小笠原の地質はそれ自体とてもユニークで学問的にも重要なのです。この点に関してはガラパゴス以上に稀少と言ってもよいでしょう。どこにそんな貴重なものがあるのかとお思いになる方がいらっしゃるかもしれません。実は皆さんが“路傍の石”としてふだん見向きもしない,そのあたりに転がっている石が小笠原特有の世界でもとても珍しい岩石なのです。とりわけ“無人岩(あるいはボニナイト)”という岩石は,特異な化学組成と希有な鉱物を含むことで有名です。長さ10 cmにもなる大きな乳白色の鉱物を含む無人岩の溶岩があります(図1)。この鉱物は単斜エンスタタイトという輝石の仲間で,隕石にはよく含まれますが,地球上の岩石では無人岩の仲間だけ,それも世界で数カ所しか見つかっていないとても珍しい鉱物です。父島ではループトンネルや小港周辺などで見ることができます。一方,母島は大昔の火山島で,岩石自体は内地の火山と変わったものはありません。しかし,母島の地層には貨幣石という大型の有孔虫化石が沢山含まれています。この貨幣石は今から数千万年前に絶滅した直径数cmにもなる巨大な単細胞動物です。同時代の近縁の貨幣石は九州の南方の沖大東海嶺や奄美海台の海底からも見つかっています。このことは,かつて小笠原が沖大東海嶺や奄美海台の近くにあったことを意味します。皆さんの“路傍の石”は,壮大な地球の歴史を記した古文書なのです。


図1.単斜エンスタタイトを含んだ無人岩の枕状溶岩(a)。白い単斜エンスタタイトの巨晶は枕の中央下部に集積している(b)。

小笠原諸島の地質と生い立ち

小笠原諸島はどこで生まれたか?

 一般の方には“地質”とはちょっと聞き慣れない言葉かもしれません。植物や農作物などが生育するところを土壌と言い,その性質が“土質”です。土壌の下にある岩石や土砂のことを“地層”と言い,その性質を“地質”と言います。地層は私たちの足下深く,はるか地球の中心まで続いています。いうなれば大地そのもののことです。この大地のでき方やその仕組みを研究する学問が地質学です。小笠原村には北は聟島列島から南は南硫黄島まで,西は西之島から東は南鳥島まで,非常に広い範囲の島々が含まれていますから,それらの地質の成り立ちといっても様々です。地質学的に見て,これらの島々は大きく3つに分けることができます。西之島から南硫黄島に至る火山列島,父・母両島をはじめとする小笠原群島,それからはるか東の南鳥島です(図2)。火山列島はいずれも第四紀の新しい活火山で,伊豆−小笠原海溝に平行に南北に延びる海底火山群の一部が海面上に顔を出したものです。伊豆−小笠原海溝と平行に走る火山列はともに東に向かって弓なりに張り出しています。このように弧状配列した火山列を含む地帯を島弧と言います。東北日本も日本海溝に向かって弓なりに張り出した島弧ですし,西南日本も南海トラフという海溝に向けて張り出した島弧です。島弧にある火山を島弧火山と言います。小笠原群島は古第三紀という地質時代の海底火山と火山島が海面上に現れたもので,今から4,800万年〜3,800万年前の島弧火山です。これに対して,南鳥島の周りには海溝がありません。太平洋の海底をつくる硬い岩盤(プレート)の上にできた,島弧火山とは全く違ったタイプの火山なのです。実はガラパゴスと同じようにしてできたホットスポット火山です。ホットスポットとは,文字通り地球深部から高温の物質が上昇してくる場所のことで,プレートの動きや海溝とは無関係に火山ができます。現在の地球上にはこのようなホットスポットが40個くらいあります。リゾート地として有名なハワイやタヒチもホットスポット火山です。




図2.小笠原周辺のプレートと島弧−海溝系。

 地球の表面は10数枚のプレートという堅い岩盤でおおわれています。プレートはじっとしているわけではなく,南極の大陸氷河のように年間数cmから20 cmくらいの速度でゆっくりと動いています。プレート同士は衝突したり,片方の下にもう一方が沈み込んだりします。プレートが沈み込む場所が海溝という深い溝です(図3)。日本列島の周辺は4つものプレートがぶつかり合っている場所で,そのために地震や火山活動が盛んなのです。小笠原諸島があるのはフィリピン海プレートの東端です。地球の海洋底には総延長7万 kmにもなる海底火山の大山脈があり,地球をぐるりと取り巻いています。この山脈を中央海嶺と呼びます。海洋底のプレートは中央海嶺にそって裂けながら両側へ広がっています。中央海嶺では地球内部からマグマが湧き出て,裂け目を埋めるようにして新たにプレートを生み出しているのです。この時テープレコーダー(最近あまり見かけませんが)と同じように,新しく付け加わったプレートはその時々の地球磁場の方向に磁化されます(図3)。方位磁石のN極が地球の北を指すのは,北極がS極に帯磁しているからです。ところが,地球磁場は常に一定しているわけではなく,数万年に一度くらいの割でN極とS極が入れ替わります。そのため中央海嶺で磁化される海洋プレートには地球磁場の反転が地磁気異常の正と負の縞模様として延々と記録されます。そこで,この縞模様を解読することによって,そのプレートがいつ,どのように動いたかという歴史を読みとることができるのです。




図3.中央海嶺と島弧−海溝系。中央海嶺で生まれた海洋プレートはその時々の地球磁場の方向に磁化され,ベルトコンベヤーのように移動していき,やがては海溝から沈み込む。

 フィリピン海プレートのほぼ中央を南北に九州−パラオ海嶺という海底山脈が走っています(図2)。九州−パラオ海嶺と伊豆−小笠原−マリアナの間には四国海盆とパレスベラ海盆という海洋底があります。この海底の地磁気異常の縞模様は,今からおよそ3,000万年前から1,700万年前にかけて四国−パレスベラ海盆が拡大したことを示しています。つまり,3,000万年前には伊豆−小笠原−マリアナ弧は九州−パラオ海嶺とくっついていて,奄美海台,沖大東海嶺と小笠原はすぐ隣合っていたのです(図4)。それが近縁の貨幣石が出る理由です。父島や母島の火山活動は今から4,200-4,800万年前なので,さらに時代をさかのぼる必要があります。今から4,800万年前には小笠原は赤道近くにあって,多分反時計回りに90-100度くらい回転させた状態であったらしいのです。この頃小笠原の火山活動が起きたのは,小笠原の下から高温のマントル物質が湧き上がってきたためという説と,北側から小笠原の下に中央海嶺が沈み込んだためという説があります。このあたりになるとデータが乏しくてプレート運動の復元がむずかしいため,どちらも定説と言えるほどにはなっていません。

44,800万年前の小笠原周辺のプレートの復元図。Tatsumi and Maruyama (1989)より。小笠原は赤道付近にあって,西フィリピン海盆の拡大軸のすぐ近傍に位置していた。北側の海溝には生まれたての暖かい北ニューギニアプレートが沈み込んでいた。また,ちょうどこの頃小笠原直下に高温のマントル上昇流があったとする説もある。

小笠原群島の地質

 小笠原島の島々は始新世という地質時代に活動した島弧火山です。正確な年代を決めるのはむずかしいのですが,最新の研究データを加味して考えると,火山活動の時代はおそらく4,200-4,800万年ほど前であろうと思われます。父島以北の島嶼(父島列島,聟島列島)はやや古く4,500-4,800万年ほど前の海底火山の集まりで,漸新世(今から3,750-2,250万年前)までに一旦隆起して島となりました。これらの海底火山は現在の伊豆−小笠原の火山では産出しない,無人岩というマグネシウムの含有量が高い特殊な安山岩の溶岩でできています(表1)。父島や兄島には無人岩の他にも安山岩,デイサイト,流紋岩の溶岩が出現します。これらはケイ酸分では56-58% (無人岩),58-62% (安山岩),62-72% (デイサイト),72%以上(流紋岩)という違いがあります。

 一方,母島は始新世中期に活動した火山島で,現在の伊豆諸島の玄武岩や安山岩とよく似た岩石でできています。父島同様あまり正確な活動年代はわからないのですが,最近得られた溶岩の放射年代は約4,400万年前です。溶岩の間に挟まれる浮遊性有孔虫化石は4,600-4,200万年前くらいなので,化石年代と放射年代はほぼ一致したと考えてよさそうです。母島で一番新しい地層は石門の石灰岩で,含まれている化石から4,100万年よりは若いようです。父島以北の海底火山は穏やかな溶岩流出で始まったことから,数百mよりも深い海底で噴火したと思われます。これに対し,母島の火山は海面上に顔を出していました。また,母島の南東沖の海底には無人岩の海底火山が見つかっています。これらのことから,まず聟島から父島を経て母島の南方に至る広い範囲で無人岩の海底火山が活動し,小笠原諸島を載せる海底全体が隆起して海が大分浅くなってから母島火山の噴火が始まったと考えるのが自然でしょう。

父島海底火山と父島列島

無人岩の溶岩は父島列島や聟島列島では一番古い地層です(図5)。その下にはもっと古い時代の地層があるはずですが,何があるかはわかっていません。父島では無人岩は主に北東から東側の海岸を廻って南岸にかけて分布します。ほとんどは枕状溶岩という海底の急斜面を流れた溶岩に特徴的な形態を示します。海岸の崖に露出する断面を見ると,亀の甲羅に似ているので当地では“亀石”の名でお馴染みです。また枕状溶岩を切って貫入した多数の岩脈を海岸の崖で見ることができます。岩脈とは板状の火山岩体で,厚さ数10 cmから数10 m,縦横に数kmも続くことがあります。もともと火山の地下にあったマグマの通り道が冷えて固まったものです。特に石浦から初寝浦にかけての海岸に多く,東島との間の海上に顔をのぞかせる数多くの岩礁は全て岩脈です。岩脈が集中しているこのあたりが“父島海底火山”の中心でした。父島海底火山は北北西に延びた山体を形成し,比高500m以上あったと思われます。現在では山頂と火山体の中心部はすっかり波に削りとられ,堅い岩脈だけが浸食に耐えて残っています。父島火山の初期の活動はもっぱら静かに枕状溶岩を流し出す穏やかな噴火でしたが,山が高くなるにつれて次第に爆発的な噴火を交えるようになりました。このときの噴出物は夜明け山から中央山一帯の周遊道路沿いに見ることができます。

 父島の西部,小港から金石浜にかけては父島海底火山のすそ野にあたります。高い山頂で起きた爆発的噴火で吹き飛ばされた溶岩の破片や火山灰は,水中土石流となって山裾に流れ下り,砂と泥の層が交互に繰り返す地層となって堆積しました。ブタ海岸から南に続く海岸に沿ってリズミックな縞模様を見せている黄褐色の地層です。

5a.父島と兄島の地質図。

 無人岩の活動が終わりに近づくと,父島海底火山の山頂付近と西のすそ野にあった野羊山〜飯盛山でもっとケイ酸分の高いデイサイト質マグマの噴火が始まりました。デイサイト溶岩が水中で噴火すると,水による急冷のため破砕してハイアロクラスタイトという溶岩片の集合物になってしまうのが普通です。ところが,このデイサイトは無人岩に近縁の特異な組成をしているせいか,立派な枕状溶岩をつくっています。これも小笠原以外ではめったに見られない現象です。野羊山の壁や象鼻崎では直径数mを越える巨大なデイサイトの枕状溶岩が見られます。デイサイトの火山活動が衰えてくると,噴火が間欠的になって次第に休止期が長くなりました。この時期に火山体の山稜から山腹を被っていたデイサイト溶岩の浸食が進み,円摩されたデイサイトや安山岩のレキを含むレキ岩層が堆積しました。

 しばらくすると再び山稜で噴火活動が始まり,ハイアロクラスタイトを伴った板状の流紋岩溶岩が山体斜面を流れ下りました。これらの溶岩の多くは浸食によって失われたと思われますが,今でも旭山と赤旗山,天之浦山から巽崎にかけて見ることができます。

その後父島列島では無人岩質マグマとは全く異なる種類の火山活動が始まりました。三日月山一帯と弟島の山稜にはオージャイトとハイパーシンという輝石の大きな結晶を含む安山岩やデイサイトの火山性の角レキ岩ないし火山砂岩層が見られます。この安山岩やデイサイトは内地の火山の石とよく似ています。専門的にはカルクアルカリ岩系と言って,島弧火山を特徴づける岩石です。この砂岩−レキ岩層は,ほとんどが水中土石流の堆積物です。おそらく,火山体の一部が地震や噴火を引き金にして崩れたものと思われます。しかし,その火山の噴火中心がどこにあったのか未だにわかっていません。よく似た角レキ岩層は嫁島の山稜にも見られます。父島列島だけでなく,嫁島付近にまで拡がったかなり広域的な火山活動だったようです。

5b.父島と兄島の地質断面図。

母島火山と母島列島

 従来母島も父島同様の海底火山と考えられていましたが,近年の調査で火山島として海面上に顔を出していた時期があったことがわかってきました。母島を構成する岩石は現在の伊豆諸島の玄武岩や安山岩とよく似ています。当時の“母島火山”の海岸では粗い砂地溶岩のレキがゴロゴロする浅瀬で大型の貨幣石や貝類が生息していました。噴火の度に安山岩の溶岩流が陸上から海に流れ込んだり,ときには非常に爆発的な噴火を起こして火山灰を降らせたり火砕流を発生したりしました。火砕流の中には山腹を勢いよく流れ下り,海中に土石流としてなだれ込むものもありました。沖港の岸壁にはこのような水中土石流の堆積物が露出しています。これらの火山活動が収まった後,徐々に島の沈降が進み水没した山稜をおおうように有孔虫や石灰藻などの造礁生物がリーフを形成しました。これが石門の石灰岩です。

 母島で最も古い地層は東海岸の裏南京から裏高根の崖と東崎湾で見ることができます(図6)。これらは主に安山岩のハイアロクラスタイトと成層した火山砂岩層と火山角レキ岩層が交互に繰り返した互層からなります。それらを被って2枚の白色およびオレンジ色の軽石凝灰岩層が裏高根から船木山まで追跡できます。これらの軽石は爆発的な噴火があったことを示す証拠です。

 これらの地層の上位には乾陸上を流れた溶岩や火砕流堆積物,浅い海底を流れた板状溶岩およびハイアロクラスタイトからなる地層が母島全島にわたって見られます。溶岩の間には貨幣石を含む成層した石灰質砂岩−レキ岩互層や規則的な砂岩−シルト岩互層を挟むことがあります。また,猪熊湾から長浜にかけての海岸では多数の岩脈が溶岩層に貫入しています。

母島で最上位にくるのが石門の石灰岩です。石門石灰岩には始新世末から漸新世(3,400-4,100万年前)の有孔虫化石が沢山含まれています。石灰岩層の下にはほぼ水平に成層した緑色砂岩層がありますが,これは下位の溶岩層が浸食されてできた窪地を埋めるように堆積しています。

母島の南西から南の沖合には向島,平島,姉島,姪島など面積1-2 km2の小島が点在しています。これらの島々は母島本島と同じく溶岩や火山性レキ岩,岩脈などからなりますが,貨幣石を含む地層は見つかっていません。母島のように安山岩が見られるのは妹島だけで,その他の島々は玄武岩からなり,よく枕状溶岩をつくっています。玄武岩も枕状溶岩も母島本島ではほとんど見られません。

6.母島の地質概略図。中島(1991)を簡略化。


地質の見所と観察の要点

父島と兄島の観察ポイント

無人岩(ボニナイト)とはどんな石?

  父島では無人岩の枕状溶岩は島の北岸から東の海岸を廻って南の千尋岩の崖にまで分布しています(図5)。手近なところでは宮之浜,釣浜の東岸,初寝浦〜石浦などで見ることができます。観光客がよく行く小港やループトンネルの周辺にあるのは残念ながら無人岩ではありません。古銅輝石安山岩の枕状溶岩です。しかし,ループトンネル周辺の安山岩には1-5 mmくらいの乳白色の単斜エンスタタイトが入っています。

 無人岩はガラス質の岩石で,割れ口はグリースがにじんだような特徴的な光沢を示します。多孔質で丸い気泡を白い沸石などの二次鉱物が埋めていることがあります。また,34種類の輝石という鉱物の柱状〜板状結晶を沢山含んでいます。無人岩を手に取った時にまず目を引くのは濃緑色の径1-2mmの結晶です。古銅輝石という鉱物で大きなものは1cm近くにもなります。無人岩が風化浸食を受けると堅い古銅輝石だけが残り,やがて波に洗われて海岸に集まり緑色のうぐいす砂となります。ハワイなどの海岸にはカンラン石という鉱物が集まってできるカンラン石砂というのがありますが,世界的にはさほど珍しいものではありません。しかし,世界広しと言えどもうぐいす砂が採れる所は小笠原の他には聞きません。岩石を岩石カッターで板状に加工してスライドガラスに貼り付け,厚さ0.02-0.03 mmくらいになるまで薄く研磨すると,光を通すようになります。このように薄く加工した岩石試料を“薄片”と言いいます。無人岩の薄片を偏光フィルターを備えた偏光顕微鏡で見ると,先ほど述べた単斜エンスタタイトや古銅輝石の結晶が透き通った天然ガラスの中に輝く様子を見ることができます(図7)。内地の火山岩には見られない美しい組織をもった岩石です。

7.無人岩の偏光顕微鏡写真。単斜エンスタタイト(Cen)やカンラン石(Ol)の大きな結晶が見られる。周囲の小さな結晶はオージャイトと古銅輝石

 無人岩は安山岩という火山岩の一種ですが,普通の安山岩に比べてはるかに高いマグネシウム含有量を示すことも特徴です(MgO8-15%;表1)。この岩石を世界で初めて研究したのが理科大学(現在の東京大学理学部)助教授の菊池安です。菊池は1888年に邦文で小笠原の地質を紹介し,1890年には英語論文で詳細な鉱物記載と化学分析を発表しました。彼の研究成果は大変すぐれたものであったのですが,残念なことにあまり注目されず32才という若さで夭逝したこともあって,やがて忘れ去られてしまいました。無人岩の英語名をボニナイトboniniteと言いますが,これはペーターセンPetersenというドイツ人学者が1990年に命名したボニニットboninitという岩石名を英訳したものです。元をただせば小笠原の古名である“無人島(ぶにんじま)”から名付けたもので,“小笠原石”という意味です。もっとも“ぶにん”は“むにん”がなまったもののようですから,本来は“ムニニットmuninit”と命名するべきだったのでしょうか。

 無人岩の特殊な化学組成は,数千万年前に小笠原諸島を形成した火山活動を復元する上で重要な鍵となります。無人岩は父島列島から聟島列島にかけて見られますが,これらの多くは海底火山の噴火によって生じた溶岩です。溶岩とは融けた岩石が地表に(海底も含まれます)現れたもので,流れている最中も,冷えて固まった後も溶岩と呼びます。融けた溶岩が地下にあるときはマグマと言います。普通の島弧火山の下では,地下30 kmよりも深いところでマントルカンラン岩という岩石が部分的に融けて,ケイ酸分が50%前後の玄武岩質マグマができます。この玄武岩質マグマが地表に上ってくる途中で変化して,安山岩やデイサイトのもとになるケイ酸分に富んだマグマができます。ところが地下20kmという浅いところで水を含んだマントルカンラン岩が溶融するとケイ酸分が高く(56-58%),マグネシウムの多い無人岩質マグマとなることが高温高圧実験によってわかりました。通常ですとこの深さのマントルは温度が低く,溶融することはありません。無人岩質マグマが発生したときは何か特別なことが起きて,冷たいマントルを加熱したに違いありません。それが先程述べたプルームの上昇やホットプレートの沈み込みであろう,と考えられるのです。

 

枕状溶岩

 小港海岸や亀の首の海食崖,ループトンネルなど父島周辺ではお馴染みの“亀甲石”のことです(図8)。粘性の低い溶岩が水底を流れたときにつくる特徴的な形態で,西洋枕を積み上げたような形をしていることから枕状溶岩pillow lavaの名があります。和名では俵状溶岩とも言ったのですが,昨今では米俵を目にする機会も少ないので,直訳して枕状溶岩と言っています。個々の枕は細くくびれた所でつながっていて,立体的にはウインナーソーセージのように連結しています。また,ときどき2つの枕に枝分かれすることもあります。ハワイの海底では実際に枕状溶岩が流れる様子がビデオに収められています。枕状溶岩は平均斜度が数度以上の水底を流れるときにできます。また,小規模で静かに溶岩を流し出すような噴火の時に生じることが多いのです。

8.父島の枕状溶岩。小港の八瀬川河口にある古銅輝石安山岩(a),釣浜の無人岩(b),および天之鼻のデイサイト(c)。安山岩の枕状溶岩は変質のために中心部が黄色くなっている。しかし無人岩の枕状溶岩はあまり変質していないため,枕の中心部も灰色である。デイサイトの枕状溶岩は一見すると角レキ岩のように見えるが,明黄色の境界をたどると枕の輪郭がわかる。

 

 小港のロータリーや海岸では安山岩の枕状溶岩が見られます。砂浜の左右の崖を見ると,黄色い岩肌に黒い不規則な亀甲模様を描いたようなものがあります。黒い部分は枕状溶岩の表面が海水に急冷されてできたガラス質の部分で,その間の黄色い地肌は溶岩内部の多孔質の部分です。細かい気泡がいっぱいあるために地下水などが染みこんで,風化変質した結果黄色くなったのです。もともとはロータリーの壁に見られるような灰色の岩石でした。溶岩が急冷されてできる天然ガラスは比較的風化に強いため,黒く枕の形を縁取るように残ったのです。ところで無人岩の枕状溶岩は中心部でもあまり黄色く変質しません。岩石全体が非常にガラス質だからです。

ふつう枕状溶岩は玄武岩であることが多く,安山岩やデイサイトのようなケイ酸分の多い溶岩はめったに枕状溶岩とはなりません。ところが,父島では安山岩どころかデイサイトの枕状溶岩まで当たり前のように目にします。これらは小港から中山峠,象鼻崎から野羊山の崖などで見られます。また,天之鼻ではとても見事なデイサイトの枕状溶岩が崖をつくっています。枕の大きさは溶岩の粘性と関係があります。ケイ酸分の多い溶岩ほど粘性が高いので,玄武岩よりも無人岩,さらには安山岩の方がより大きな枕をつくります。さらにデイサイトになると差し渡し10mを超えるような巨大な枕をつくることがあります。

 

金石と金石浜

 父島南西端の南崎のすぐ東にある谷を下ると,灰青色や黄色の粘土が大小のレキがゴロゴロした浜に出ているのが見られます(図9)。辺りには潮の香に混じってプンと鼻をつく硫黄の匂いが漂っています。ここは塊状硫化鉱床といって,海底に噴出した熱水から直接結晶化したいろいろな硫化鉱物が堆積してできたものです。残念なことに金石浜にあるのはその鉱床の地下にあった熱水変質帯で,鉱床本体は削剥されて残っていません。ひょっとすると山側のどこかでボーリングしてみれば鉱床の続きが出てくるかもしれません。谷を挟んで両側の海食崖には枕状溶岩が出ています。谷に向かって右手奥を見ると,枕状溶岩に貫入する厚い岩脈が何枚も海からそそり立っています。このあたりは噴火中心の一つであったので,活発な熱水活動によって鉱床が形成されたのです。

 粘土の中には白色〜透明な石膏や金色に輝く黄鉄鉱の美晶などが入っています。金石とはこの黄鉄鉱のことです。また,粘土の表面に黄色い硫黄の結晶が見られることがあります。黄鉄鉱は鉄の硫化物でおおよそFeS2という化学組成をしており,比重が5と大きいので手にもつとずしりと重い手応えがあります。金と違って硬く,瀬戸物などの素焼きの板にこすり付けると黒緑色の筋がつきます。昔よく山師が金と偽って人をかつぐのに利用したという話しがあります。粘土を掘るよりも波に洗い出された塊を浜で探した方がいいものが見つかるかもしれません。

9.金石浜の熱水変質帯。熱水による変質作用のために,枕状溶岩の地層が外側から黄褐色変色帯〜粘土帯へと変質している。

 

黒砂と大根崎(自衛隊裏)

 自衛隊の敷地を抜けて裏手の海岸に出てみましょう。丁度大根崎の下になります。トーチカの左の崖を見ると下に層状になった砂岩と泥岩が交互に積み重なった地層(砂岩−泥岩互層)が出ています(図10)。その上には拳大くらいの安山岩のレキがいっぱい入ったレキ岩層が重なっています。同じレキ岩のブロックが沢山海岸に落ちています。レキはやや角ばったものが多いので,火山角レキ岩と言います。火山角レキ岩層と砂岩−泥岩互層の境界を見ると,下にある砂岩−泥岩層が乱れて褶曲しています。まだこれらの地層が海底にあったとき,上にのっているレキ岩層が地滑りを起こした跡です。角レキ岩の中にはあまり地層のような構造は見られません。しかし崖のずっと上の方を見上げると,角レキが横に並んで層状になっています。これらの地層は三日月山をつくっている水中土石流の堆積物です。角レキには大きなオージャイトやハイパーシンの結晶が沢山入っています。濃緑色の結晶がオージャイト,濃茶色がハイパーシンです(図11)。

10.大根崎の海岸(自衛隊裏)に露出する三日月山をつくる地層。土石流の堆積物が砂岩−泥岩互層の上をすべったために,地層が乱れている。

 崖に面して左手の砂浜を見ると,黒い砂がところどころ筋をつくっいるのに気づきます。

これが黒砂です。黒砂を手にとってルーペか虫メガネで見ると,先ほどのオージャイトやハイパーシンの結晶がいっぱい入っているのがわかります。少量ですが,カンラン石の結晶も見られます。磁石を近づけてみると吸い付く砂粒があります。砂鉄(磁鉄鉱の細かい結晶)です。黒砂の正体,おわかりになりましたか。

11.大根崎の黒砂。濃緑色のオージャイト(左と上)と濃茶色のハイパーシンの自形柱状結晶(右)。

 

メノウ(瑪瑙)と沸石

 海岸を歩いていると時折白っぽいガラスの塊のような小石を見かけることがあります。手にとって割れた断面を見ると,白と半透明の細かな筋が交互に重なって縞模様をつくっています。メノウです。メノウは岩の割れ目や溶岩の気孔を埋めて熱水から結晶化したものです。父島ではデイサイト,母島では安山岩の溶岩などに伴って白い脈となって現れたりします。メノウができている所ではデイサイトが変質して青味を帯びていることが多いので,遠目にも見当がつきます。多くの場合乳白色のメノウですが,稀に色づいているものもあります。

 無人岩や安山岩の枕状溶岩の気泡を半透明の板状や放射状の白色の結晶が埋めていることがあります。多くの場合,沸石という鉱物の仲間です。沸石の結晶中には水が含まれていて,強く加熱すると沸騰することから名付けられました。小笠原でよく見かけるのは束沸石や輝沸石などです。また,飯盛山をつくる溶岩ドームの割れ目には偏菱24面体のドーム型をした方沸石のきれいな自形結晶を見ることができます。

 

長崎とループトンネル

 ループトンネルを抜けて上にあがると道路脇に枕状溶岩の説明板があります。両脇を見るとへんてこな形をした溶岩が壁いっぱいに飛び散っているように見えるのがあります。また部分的にはきれいな枕状溶岩になっているところがあります。海側や道路の下の崖にも枕状溶岩が見えます。こちらの方が立体的な形がよくわかります。これらの溶岩はいずれも単斜エンスタタイトと古銅輝石を含んだ安山岩です。ループトンネルを下って長崎展望台に上がって見ましょう。向こうに兄島最高峰の見返山の頂が見とおせます。見下ろすと兄島瀬戸に突き出した岬が足元と右手にあります。右手の岬が長崎です。長崎には二つ三つオレンジ色を帯びた岩稜が空に向かってそそり立っています(図12)。これらは石英を含んだ流紋岩の岩脈です。一般に岩脈はマグマの粘性が高いほど厚くなります。流紋岩岩脈は無人岩やデイサイトに比べるとかなり厚く,50 mを越えるものもあります。

12.長崎の石英流紋岩の岩脈(矢印)。

 

13.東島と石浦の間にある岩脈群。白波の立つ岩礁は全て岩脈

 

夜明山展望台と初寝山山頂

 夜明山の展望台から海の方を眺めてみましょう。初寝浦の白い砂浜から石浦にかけて続く小山が3つほど連なり,それぞれから海に向けて岩礁が突き出ています。無人岩やデイサイトの硬い岩脈が浸食に抗して山や岩礁となったものです。初寝山から石浦とその先の東島を見ると,白く泡立つ岩礁がみんなそろって同じ方向を向いているのがわかります。ローソク岩もそのうちのひとつです。これらの岩脈は父島海底火山の噴火中心の地下にあった平行岩脈群です(図13)。

 初寝山に登って北の方に目をやると,初寝浦や北初寝へ降りていく尾根が岩肌を見せています。目を懲らして見ると,突出した硬い地層と凹んだ柔らかい地層が交互に積み重なってつくる帯が海側から山側へ向かって傾斜している様子がわかります。枕状溶岩とレキ岩層が互層した海底火山の内部構造が見えているのです。レキ岩層は主に無人岩の岩片でできています。よく発泡した枕状溶岩の破片や小さな火山弾のような岩塊を含むこともあります。爆発的な噴火があったことを示す証拠です。

 

ジョンビーチと南島

 南島と南崎に見られる石灰岩は漸新世から中新世という時代に石灰質の殻をもつ有孔虫やサンゴ藻などの生物が集まって生じたリーフです。下半分はそれらの生物の欠片が堆積したものです。泥っぽい細粒の部分には固着性や大型の有孔虫化石も見られます。一方,上半分はサンゴ藻や大型有孔虫などの生物の遺骸が積み重なってできています。細粒の堆積物を欠くことや,生物片の積み重なった産状から海底のチャンネルや周囲から少し高くなった浅瀬であったと考えられています。ジョンビーチのわきにある石灰岩の壁を見ると,赤茶けた帯が縦横に走っています。中には大小さまざまな角張った石灰岩のレキが見られますが,硬く石化しています。リーフが波浪などで崩れて割れ目に落ち込んだ欠片が固まったもので,リーフ角レキ岩と言います。

 石灰質の殻をもった生物が積もると,石灰分が海水と反応する過程で固定され,その場で石化していきます。そうやって生じた石灰岩が陸化すると,地表の風雨にさらされている間に風化浸食が進みます。特に二酸化炭素が溶け込んだ地下水は石灰岩をつくる炭酸塩鉱物を溶かします。南島を上空から見下ろすと,陰陽池や鮫池のような丸い入り江や窪地が沢山見られます。これは浸食と溶喰によってできた漏斗のような形をした窪地で,中心部は地下水の通り道となった空洞に続く穴が開いていたりします。これらの丸い窪地のことをドリーネ,いくつかのドリーネが合体して大きくなったものをウバーレと呼んでいます。ドリーネやウバーレの間はするどく尖ったやせ尾根になります。やせ尾根はラピエ(カレン)です。和名では墓石地形という言葉があります。石灰岩などに見られるこのような地形をカルスト地形と呼んでいます。南島と南崎の間の海には尖ったラピエがいくつもの岩礁となって突き出ています。岩礁をたどってみると,海底に沈んだドリーネを縁取るように弧を描いているのがわかります。かつて隆起していた石灰岩の台地が水没した結果,南島の沈水カルスト地形となったのです。

 南崎から南島にかけて砂丘の中からヒロベソカタマイマイやオオヒシカタマイマイというカタツムリの化石が出てきます。殻の装飾がはげて白くなった殻をごらんになった覚えがおありかと思います。かつてはこれらは更新世という200万年よりも古い時代の化石と考えられていましたが,炭素年代の測定の結果今からおよそ1,000-2,000年前のものとわかりました。このカタツムリの仲間は今でも父島や兄島,母島などに棲息し,独自の進化をとげた小笠原固有種となっています。また,砂丘下の古土壌や裂か堆積物から見つかるニュウドウカタマイマイは,直径8 cmにもなる日本最大のカタツムリで,約2万年前からおよそ1万年前まで生息していた更新世の化石種です。

ジョンビーチの浜辺の波打ち際で灰白色の一枚岩が海に向かってゆるく傾いているのにお気づきでしょうか。ビーチロックといって,今まさに浜辺でできつつある石灰岩です。よく見るとその辺に転がっているのと同じ石ころが白い砂粒で固められているのがわかります。熱帯の砂浜でよく見られる風景です。

 

兄島筋岩岬

 船に乗る方ならよくご存じですが,岩壁に無数の筋模様が入っています(図14)。この筋一本一本が全て岩脈です。実際は板状になっていますから,一本ではなく一枚と数えます。ここの岩脈は父島の東海岸のものに比べるとずいぶんと寝ています。地質学者は岩脈の傾斜を測るとき,水平からの角度を見ます。板が水平に横倒しになっていたら0度,垂直に立っていたら90度です。筋岩をよく見ると,急傾斜した岩脈が傾斜のゆるい岩脈を切っています。つまり後から貫入した岩脈ほど急傾斜しています。このことから徐々に傾動しつつある地層に時折岩脈が垂直に近い高角度で貫入しため,先に貫入した岩脈ほど水平に寝てしまった,ということがわかります。岩脈の貫入という火山活動と,地層の傾動という地殻変動の関係を読みとることができるのです。

14.兄島の筋岩岬。多くの岩脈が筋をつくる

 


母島の観察ポイント

ハイアロクラスタイト

 ガラスのコップを赤くなるまでガスコンロで熱しておいて,冷たい水を一気にそそいだらどうなるでしょうか。すぐに想像つきますね。たちまちヒビが入ってコップは砕けてしまうでしょう。溶岩でも同じことが起こります。枕状溶岩の縁が黒いガラス質になっていると述べましたが,窓ガラスも溶岩もどちらもケイ酸分を主体とした物質でできています。いわば溶岩は天然ガラスのもとと思ってよいでしょう。1000℃を越える灼熱の溶岩が冷たい海水の中に一気に噴火することを考えて下さい。冷やされた部分からたちまちひび割れて,砕け散ってしまうことは容易に想像がつきます。そのようにしてできた溶岩の欠片やその集合物のことをハイアロクラスタイトと言います。枕状溶岩の黒い縁の間を見ると,細かい黄色い砂のようなものが詰まっています。これは溶岩が水冷破砕してできたガラス片,すなわちハイアロクラスタイトがあとで風化変質したものです。特にケイ酸分の多い安山岩やデイサイトの溶岩は,枕状溶岩とならずに溶岩全体が砕けてしまうことが多いのです。母島にはそのようにしてできたハイアロクラスタイトがいっぱいあります(図15)。沖港の北側,鮫ヶ崎の海岸沿いにハイアロクラスタイトの地層を連続して追うことができます。また,御幸浜から南京浜にかけて海岸に出ている黒い岩もハイアロクラスタイトです。父島ではデイサイトがよくハイアロクラスタイトになります。例えば大神山神社の下,船着き場の向かいの黄色い岩壁には黒い岩片が飛び散ったように見える岩が出ています。これがそうです。

15.母島御幸浜のハイアロクラスタイト。下部の塊状溶岩から割れ目にそって溶岩の欠片が剥がれていく様子が見える。

 

火砕流

 噴火した火山の映像で,火口から黒い噴煙が立ち上っているのをご覧になったことがおありかと思います。噴煙が黒く見えるのは,その中に火山灰や噴石が含まれているからです。地下にあったマグマが火口から出る時に粉々になったものが火山灰や噴石です。噴煙の元はマグマですから,高温で大気よりもずっと重いのです。火口を出た後周りの空気を十分取り込んで膨張させることができると,大気よりも軽くなって空高く上昇していきます。時には成層圏(地上10 km以上)にまで達することがあります。ところが空気を十分取り込めないと,噴煙は大気よりも重くなって火口から出るなり下に向かって落ちてきます。これが火砕流です。火砕流は高温・高密度の流れで,前方にあるもの全てをなぎ倒し,焼き払いながら猛烈なスピードで流下します。速いものでは時速200 kmにもなります。特に高速の火砕流はガスをいっぱい含んでいて,ホバークラフトのように火砕流の下からガスを吐き出しながら流れます。そのため地面との摩擦が小さく,高速で移動できるのです。

 西浦に下る谷を道路が横切る少し南で母島火山の陸上を流れた火砕流の堆積物を見ることができます。全体として赤味がかった灰色をした砂粒の中に,丸く角がとれた安山岩のレキが点在しています(図16)。時には小石くらいの大きさで丸みを帯びたレキがつまった縦に伸びる割れ目が見られることがあります。火砕流が含んでいた高温のガスが抜けた跡で,吹き抜けパイプと呼んでいます。高速火砕流の特徴です。

16.母島西浦へ下る谷のすぐ南で道路切り割りに露出する陸上火砕流の堆積物。赤味がかった細粒の火山砂に角がとれた安山岩片が点在する(a)。火砕流堆積物(写真左)を貫く巨大な吹き抜けパイプ(写真右)(b)

貨幣石(ヌンムリテスNummlites

 母島の貨幣石は100年以上も前から産出が知られた大型の底生有孔虫です(図17)。有孔虫には海面付近で浮遊生活をするものと,海底に住みつくものがありますが,貨幣石は後者です。同じ貨幣石でも直径数cmにもなる平らな円盤型のものと,小さなソロバン玉型のものがあります。ソロバン球型のものは小型ですが,初房が大きいので顕球型(大球形),大型の円盤状のものは初房が小さいので,微球型(小球形)と呼ばれます。顕球型は有性世代で,成長すると2個体が合体して配偶子を放出します。また,種類によっては合体することなく配偶子を放出します。2つの配偶子が合体すると微球型が発生します。これに対して微球型は無性世代で,核の染色体数が顕球型の倍あります。微球型の核分裂によって顕球型(有性世代)が生まれます。このように有孔虫は有性世代と無性世代が交互に入れ替わりながら繁殖する単細胞動物です。

 貨幣石を含む地層は溶岩やハイアロクラスタイトなどの間に挟まれていて,南京浜,御幸浜,沖村,蝙蝠谷などの石灰質あるいは火山性の砂岩層やレキ岩層から多産します。これらの貨幣石は古くはNummlites boniensis HANZAWAという種類にされていましたが,実際は2〜3種類の別の貨幣石と混同していたようです。

17.御幸浜のレキ岩中の貨幣石。ひしゃげた円盤形の無性世代(上)と小さなソロバン玉のような有性世代(下)が混在している。

 

ロース石

 沖村一帯に分布する粗粒〜中粒の石灰質砂岩で,戦前はロース石の名で石材として利用されました。砂粒の大部分は石灰質の有孔虫の殻でできていて,輝石や小さな岩片も含まれます。

18.ロース石記念館前のロース石の露頭(上)と近接撮影(下)。よく成層した石灰質砂岩で,ソロバン玉のような有孔虫化石(下)が見られる。

 

沖港

 沖港の南の岩壁には火砕流が海に流れ込んだために発生した水中土石流の堆積物が見られます。やや角がとれた安山岩のレキや岩塊が,粗粒砂ないし細レキ中に埋まっています。岩塊の中には径1-2 mにもなるものもあります。大きな岩塊の断面を見ると,表面から垂直に細い柱状の割れ目が入っていることがあります(図19)。これは冷却節理といって,高温の岩塊が水に急冷される時にできた割れ目です。土石流に含まれていた岩塊の温度が高かく,火砕流が水中に流れ込んだことを示す証拠です。

19.沖港の南岸の水中土石流堆積物に含まれる大きな火山岩塊。表面に垂直に冷却節理が発達する。岩塊をとりまく細粒礫岩が赤く酸化している。

 

御幸浜〜南京浜

御幸浜の海岸の崖には円盤型の貨幣石の化石を沢山含んだ砂岩−レキ岩層がでています。足下を見ると,黒い輝石安山岩の溶岩がありますが,割れ目が一杯あって丸みを帯びたサイコロ状のレキが集まっているようにも見えます。溶岩は割れ目に沿ってだんだんバラバラになっていき,火山角レキ岩に移り変わります(図15)。この角レキ岩をハイアロクラスタイトと言います。ハイアロクラスタイトと溶岩を南の南京浜まで追っていくと,ハイアロクラスタイトの上に成層した砂岩層が載っていて,赤紫色に変色した砂岩層の大きなブロックが溶岩に取り囲まれている所があります(図20)。また,溶岩の割れ目に黄色い砂岩が詰まっているのも見られます。これは浅い海底にたまっていた柔らかい砂レキ層の上に溶岩が流下したために生じた構造です。ぶよぶよの砂レキ層は重い溶岩を支えることができませんから,溶岩は砂レキ層の中にもぐってしまったのです。その時,砂レキ層の一部がブロックとして溶岩の中に取り込まれ,溶岩に焼かれて赤紫色に酸化しました。一見すると溶岩の上に載っている貨幣石を含んだ砂岩−レキ岩層の方が時代が新しいように見えますが,実はできた順番から言えば溶岩の方が後だったのです。

 

20.南京浜北岸の砂岩(明色の縞模様がある地層)中に貫入した黒色溶岩。砂岩層のブロックが溶岩に取り込まれ,溶岩の熱で焼かれて赤紫色に変色している。

 

石門

石門石灰岩は母島で一番新しい地層です。石灰岩層はほぼ水平に緑色砂岩層を被っています。緑色砂岩層は下位の火山岩層が浸食された斜面を埋めるように堆積しています。石門山から延びる尾根は断層で断ち切られ,石灰岩を載せたブロック全体が東に落ち込んでいます。石灰岩は元々石門山よりも高い所に位置していました。石門石灰岩からは始新世末から漸新世(3千数百万年-4,100万年前)の有孔虫化石が知られています。


参考図書

小笠原自然環境研究会 ()1992. フィールドガイド小笠原の自然東洋のガラパゴス.

神奈川県立博物館(編),1991. 南の海からきた丹沢−プレートテクトニクスの不思議.有隣新書,東京,227p. ISBN4-89660-100-9:丹沢−伊豆半島周辺を題材にプレートテクトニクスや有孔虫の解説などがある。

藤岡換太郎・有馬 真・平田大二,2004. 伊豆・小笠原弧の衝突海から生まれた神奈川.有隣新書,蒲L隣堂,249p. ISBN 4-89660-181-5 C0244:伊豆半島〜小笠原弧の成り立ちについて最新の知見をもとに紹介。

町田 洋・白尾元理,1998. 写真でみる火山の自然史.東京大学出版会,204p. ISBN4-13-060719-7:さまざまな火山と噴火の産物について豊富な写真で解説。

鹿園直建,1988. 地の底のめぐみ−黒鉱の化学.ポピュラーサイエンス,昇華房,東京,182p. ISBN4-7853-8511-1:熱水鉱床のでき方について解説。

日本地質学会編(近刊)日本地方地質誌「中部地方」ISBN4-254-16784-9 C3344:小笠原諸島を含む日本列島中部地方の地質に関する解説書。実際のフィールドにある路頭を中心に解説し,大学生・大学院生等が独習できるように配慮されている。