2001年11月4〜8日の米国地質学会(ボストン)とオフィオライト・シンポジウム報告

金沢大学理学部地球学科 石渡 明

日本地質学会News,vol. 5, p. 11-12 (2002年1月号)に掲載

米国地質学会について オフィオライトシンポについて 写真1 写真2

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1998年のフィンランドでのオフィオライト・シンポジウム報告


2001年11月4〜8日の米国地質学会年会(ボストン)とオフィオライト・シンポジウム報告

金沢大学理学部地球学科 石渡 明

 アフガン空爆が続き,炭疽菌騒ぎが頻発するこの晩秋に,米国地質学会年会がボストン中心部のハインス公会堂で開催された.本年会ではジョゼフ・T・パーディー基金による「パーディー基調シンポジウム」が8つあり(医療地質学,オフィオライト,地殻・上部マントル中のメルト,生物地球化学,太陽系における水,21世紀の水資源,地球生物学と堆積地質学,ナノ地質学),私はその中のオフィオライト・シンポジウムに招待された.私にとって米国地質学会出席は始めてで,本年9月の日本地質学会金沢大会をお世話した一人として参考になる点もあったので,まず学会の様子を簡単に報告し,次にオフィオライト・シンポジウムの概要を紹介する.文中での敬称は略させていただく.

1.米国地質学会について   もどる

 4日の成田空港出発時は,預ける荷物の中を隅々までチェックされ,デトロイトで飛行機を乗り継いだ時も手荷物検査とボディーチェックが非常に厳しかった.4日の午後にボストンに着き,到着直後の時差ボケ状態で会場に行って登録を済ませ懇親会に参加した.会場入口でも手荷物の中身を検査された.懇親会は挨拶もなく,引換券でビール1杯(追加は有料)を飲みながら,各自勝手に展示会場(企業・地調・大学・学会など140機関が出展)を見て回るだけの簡単なものだった.しかし祭礼の夜店を回る気分で歩いていると懐かしい人とバッタリ会ったりして楽しかった.今回の主要な公式スポンサーは米国スバルで,新型車3台が会場の中心に10ブース分を占めて展示されていた.他にも日本電子,理学電機など日本企業のブースがあり,メイジテクノのブースでは日本地質学会と共同発行の「干渉色図表・鉱物鑑定表下敷き」を無料で配布していた.しかし,日本の地質関係の学会,法人,大学などのブースはなく,共同で1つ出してもいいのではないかと思った.

 5日から8日まで4日間,学術講演会が行われた.午前のセッションがどれも朝8:00からきちんと始まって12:00まであり,午後のセッションも1:30から5:30までギッシリなのには驚いた.講演時間はほとんど15分だが,オーバーする人が多くて座長がイライラするのは日本と同じである.鈴を鳴らさず,赤いライトで時間超過を知らせるだけなので,日本よりも時間を守らない人が多い.全会場にコンピュータ画像(1台),スライド(2台),OHP(1〜2台)の投影機とスクリーン2つが完備していて(写真1),パワーポイント・スライド・OHPの使用割合は大体4:4:2という印象だった(混ぜて使う人もいた).ただし,コンピュータによる発表はトラブルも多く,結局画像が出ず予備のOHPもなくて正に「口頭発表」のみという人もいた.どの会場でも,発表の後には必ず拍手があった.学会には厳しい質問や辛口のコメントも必要だが,それを補う温かさも必要である.日本地質学会でも拍手を励行した方がいいと思った.

 ポスター発表は午前と午後に分かれていて,コアタイムは講演時間と全く重なっており,特にポスター用の時間は設けられていない.しかし,例えば変成岩のセッションなら,午前中はポスター,午後は講演というように,重ならない工夫はなされている.ポスターの各ブースは縦1m,横2mの掲示板2枚を八の字に並べた間に小さい机1つと椅子2つがついていて,余裕がある.

 プログラムをもとにザッと数えてみると,口頭・ポスター合わせて発表数は3,000弱(日本地質学会の5倍弱),索引の著者総数(共著者含む)は6,300人程度(参加者実数もこの程度か.日本地質学会の約6倍),口頭とポスターの割合はほぼ半々で,会場数は口頭発表19,ポスター1である.これだけの会場を借りるとなると,招待講演者も含めて参加費を$360(一般非会員,事前登録の場合.当日登録は$450,ただし学生はその1/3)取られるのも仕方ないと思った.今年の日本地質学会年会の事前登録費(会員2000円,非会員3000円)は極端に安い.

 7日は日帰りの巡検に参加した.事前申込をしてあったが,受付では何時にどこに集合するのか誰に聞いてもわからず,結局前日になって,プログラムの巡検ページとは別のページに集合時間と場所が書いてあるのを発見した.当日所定の7:30に学会を免責する証書に署名して(付録参照)受付を済ませたが,バスが出発したのは8:15頃だった.全コース入りの厚い巡検案内書が全員に配布され(参加費$40に込み),このコースの別刷もバスの中で配布された.私が参加したのは,「マサチューセッツ州Nahant半島East Pointの地質」で,会場からバスで1時間弱の岩石海岸でカンブリア紀前期(三葉虫出現以前)の頁岩(写真2)・石灰岩とそれを貫くカンブリア紀〜デボン紀のドレライト(一部ハンレイ岩)岩床・岩脈群を見る巡検だった.化石と岩石それぞれの専門家がパネルや写真帳を示しながら詳しく説明してくれて有意義だったが,岬を歩いて一回りしただけで昼前に終わってしまった.「半日」とはどこにも書いてなく,寒くて風があったが天気が悪いわけではなかった.参加者は30人くらいだった.見学旅行全体としては会期の前・中・後含めて26コース用意されていたが,そのうち6コースはキャンセルになっていた.コースはマサチューセッツ州ないしその近隣に限られている.巡検が早く終わったので,午後はポスター発表を見たが,火星の大規模な火山活動をスーパープルーム起源とする丸山茂徳らのポスターが注目を集めていた.

 8日は午前中ポスターを見て午後変成岩の講演を聞いたが,さすがに最終日の午後は帰ってしまう人が多くて,会場は閑散としていた.この時間帯に「地質学の鉱脈にユーモアを探鉱する:再生可能な資源の採掘」というセッションがあって,「地質学におけるユーモアの役割」とか,「科学のマネージメントにユーモアはどう役立つか」などの題で真面目に(?)講演しているのはいかにもアメリカだと感じた.

 9日早朝のデトロイト乗換えの便で帰国の途に就いたが,預ける荷物は全くノーチェックで,そのまま成田まで着いたのには驚いた.10日の深夜に金沢に帰着したが,12日の深夜(日本時間)にニューヨークで旅客機墜落事故との報を聞いて,背筋が寒くなった.

写真1.オフィオライト・シンポジウムの会場(ハインス公会堂「舞踏室B」). もどる

2.オフィオライト・シンポジウムについて  もどる

 このオフィオライト・シンポジウムの正式な題は「地質学的思考の発展におけるオフィオライト問題とその解決」で,世話人はサリー・ニューカムとイルディリム・ディレックであり,5日の午後と6日の午前・午後にわたって計39件の発表が行われた.このうち,第一著者が米国機関所属のものは18件で,残りは外国機関所属であり,著者の国籍は15カ国におよぶ.全部を要約することはできないので,私が興味を持ったものについて,適当に脈絡をつけて紹介する.

 1日目の最初は,ムアーズが「1813年から現在までのオフィオライト概念の歴史」と題して,ブロンニャールの最初の定義から「シュタインマンの三位一体」, 超塩基性岩と塩基性岩の成因関係,海洋地殻との対比,オブダクション(ここまでは清水(1978)の総説(地球科学,32, 268-)参照),そして彼自身の「先カンブリア代の厚い海洋地殻」説やオフィオライトは海嶺起源でそれが「島弧的」な化学的性質を示すのは歴史的偶然にすぎない(現在でもチリ海嶺などには島弧的特徴を示す海嶺玄武岩がある)という"historical contingency"説などの基本認識について述べ,典型的なオフィオライトは海嶺での形成を示す「層状岩脈群」を持つが,地球化学的には海嶺玄武岩でなく島弧火山岩の性質を示すものが多いという難問("ophiolite conundrum")について「火山岩の化学的特徴だけで構造場を議論すべきでない」という持論を強調した.ニコラも相変わらずオマーン・オフィオライトを例に「オフィオライト海嶺起源説」を述べた.スミスのバルカン半島,ボルトロッティらのイタリア半島など,オフィオライトの古典的フィールドのレビューも海嶺起源説の立場で行われた.一方ピアスは都城(1973)の「トルドス・オフィオライトは恐らく島弧で形成された」という題の論文(EPSL, 19, 218-)がもたらした大論争について述べ,ピアス自身を中心とする「地球化学的判別図」の手法によって,結局「地球化学的には『沈み込み帯の上で』(さすがに『島弧』とは言わない)形成されたオフィオライトが圧倒的に多い」という現在の定説に収束するまでの道筋を述べた.ファンデアブーは古地磁気学の視点から背弧海盆起源を論じ,海洋底の海嶺玄武岩はほとんど沈みこんでしまい,一部の海洋島玄武岩だけが島弧・大陸縁に付加しているという考えを述べた.ホーキンスもトンガ弧やマリアナ弧における火山岩の岩石学的,年代学的研究を総括し,オフィオライトの形成場として「沈み込み帯の上」(前弧・島弧・背弧)が最適であるとの考えを述べた.デューイもニューファンドランドを例にして,同様の考えを述べた.石渡は「典型的でない」コルディレラ(環太平洋)型のオフィオライトについて,時間的・構造的多重性,著しい岩石学的多様性,厚い海洋地殻の存在,低温高圧型変成岩との随伴関係などの特徴を持ち,多くは島弧縁海起源と考えられることを論じた.また,ウィンドレーと丸山はスーパープルームの情報をもつ海台起源のオフィオライトがある可能性を指摘し,先カンブリア代オフィオライトの研究が重要であると述べた.

 2日目はまずスコテーズが彼のPALEOMAPプロジェクトのアニメーションにオフィオライトをプロットするためのデータベースと,「オフィオライト・パルス」を再確認できたことなどについて述べ,大陸移動に伴うオフィオライトの消長をコンピュータで実演して見せた.彼は展示会場に自分のブースを出していて,時代毎の大陸分布を示す地球儀作成キットとか,ページをめくると大陸移動の動きがアニメ的にわかる本やコンピュータソフトなど,工夫をこらした「大陸移動グッズ」を販売していた.ベルヌイはシュタインマンの肖像を示して,彼がどこで「三位一体」を発見したかについて詳しく話した.マクレーンやカールソンは現在の海嶺における海洋地殻形成テクトニクスの複雑さを強調し,オフィオライトで観察される構造を安易に海嶺に結びつけるのは問題だと述べた.北米西岸のオフィオライトを研究しているメトカーフは最も痛烈にムアーズの"historical contingency"説を批判して島弧縁海起源説を主張したが,ムアーズは彼の講演が始まると退場してしまった.午後もシャーベーなどが島弧縁海起源説を主張したが,ワカバヤシとディレックはオフィオライトの定置(emplacement)とは何かという問題に焦点を当て,テーチス型オフィオライトの場合は大陸衝突による大陸地殻への衝上であるが,コルディレラ型オフィオライトの場合は,南太平洋マコーリー島の例のように,海洋地殻中での衝上断層形成と沈み込みの始まり,それに引き続く付加体形成による上昇であるという考えを述べた.異色を放ったのはシェンゴールで,トルコのアンカラ・メランジを発見したのは(1930年代に?)マカリーンに指導されていたトルコ人学生のエロルであり,この事実がベイリーとマカリーン(1953)の「アンカラ・メランジ」の論文(Trans. Roy. Soc. Edin., 62, 403-)では無視されていること,一般にシュー(許清華)がメランジを初めて定義したとされるのは「再発見」にすぎないことを(例の大声で)述べた.

 今回のシンポジウムは世界の主要なオフィオライト研究者をずらりと揃えていて,この分野の歴史と現状がどうなっているかということを再認識する上で非常に有意義だった.そして,オフィオライトがまだ多くの人の関心を呼び,たくさんの聴衆を集める話題であることも確認できた.その一方で,発言力の大きい,一般によく知られている研究者が,必ずしも他の多数の研究者が主張する「常識的な」考えに従わず,昔からの「海嶺起源説」に固執したり,あまり証拠がない「海台起源説」を提案したりしているのが印象的だった.地球全体のテクトニクスを考える上で,オフィオライトは依然として重要な研究対象であり,中近東の典型的なテーチス型オフィオライトだけでなく,日本および周辺地域のコルディレラ(環太平洋)型オフィオライト研究の重要性が一層増していると感じた.

【付録】 見学旅行参加時に提出させられた証書の和訳
(私は法律には疎いので不正確かもしれない.【 】内は私が補った.)

2001年年会及び展示会 一般的な免責及び無害免責についての棄権証書(waiver)
アルコール及び薬物の使用を含む

下に署名した者は,GSA主催の「GSA見学旅行No. 00:○○地域の地質―11月00日」の内容と起こり得る危険及び災害について十分な助言を受けており,ここに同旅行に関係するあらゆるすべてのリスクを考慮し,またここに私の同旅行への参加に起因する傷害,死亡または所持品の損害,または起こり得る遅延による不都合や金銭的損失について,あらゆるすべての賠償要求【とそれによる】損失及び損害(弁護士費用及びその賠償要求に伴うすべての費用を含む)から米国地質学会を無害のままに免責する.私は私自身のアルコールまたは薬物の使用が判断力や行動力を損なうことを理解し,それらの使用に起因する損害賠償要求から同学会を無害のままに免責する.私は私が私自身の医療保険及び責任保険について責任を負うことを理解する. 署名欄・年月日欄 (案内者に渡すこと) 

写真2.石灰質ノジュールを含むカンブリア紀前期頁岩(ボストン近郊Nahant半島).もどる

 


2002年01月31日作成,2002年01月31日更新

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